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止まらぬ円安と金融市場のカラクリ(3)

今回のお話しはこれで最後になります。 1999年、グラム・リーチ・ブライリー法(世界恐慌の時に二度と同じことが起きないように策定したグラス・スティ-ガル法を廃止する内容)にクリントン米大統領がサインし、商業銀行、投資銀行、証券会社、保険会社、それぞれの間での統合が許可され、一般の銀行がリスクの潜む自己勘定での取り引きを行う投資銀行業務を出来るようにしたのです。 これにより、後にサブプライムと呼ばれる問題が発覚しリーマンショックへと連なることになりますが当時、就任したばかりのオバマ大統領は、「問題は(クリントン大統領がサインした)グラム・リーチ・ブライリー法が巨大な金融スーパーマーケットの創造を許可した規制緩和に至ったからだ」と述べ、その規模はあまりに大きく絡み合っていて潰せないサイズまで膨張していました。 そして、リーマンショック以降の世界経済を立て直すというより延命策は事実上、各国の「超金融緩和」だけであり、今度はそれによって起こったインフレを緩和引き締め(テーパリング)によって抑えようとしているだけなのです。 この現在の米国を中心とした世界的金融システムは、第二次世界大戦後というより戦中に決まった経緯があります。 日本が大本営発表で国民が何も知らされないまま大混乱して敗戦に向かっている最中の1944年7月、米国のブレトンウッズで戦後の「あたらしい金融システムの導入」について討議が行われていました。 それが前述したブレトンウッズ体制です。 その内容は、世界的にドルを基軸通貨にするということ、そしてIMFと世界銀行の設立です。 この三つが、今日の世界経済の基本的なシステムとなって今も機能しているのは言うまでもありませんが、1971年に「あること」が起きてルールが少し変わります。 これ以前は、ドルは金(ゴールド)の兌換紙幣だったのですが、これ以後は、ドルは金(ゴールド)の兌換紙幣ではなくなってしまいました。 それが前述したニクソンショックで、その「あること」とは、米国の同盟国だったはずの英国が、突如として大量のドルと金(ゴールド)との交換を米国に申し出たことにありました。 これによって、米国金融システムは事実上破綻することになったのです。 これがニクソンショックの真実です。 ニクソンショックの後、スミソニアン協定によってドルと金の交換率は1オンス=35ドルから38ドルに引き上げられ、ドル円は360円から308円の固定相場となりました。 その後、現在の変動相場制へと切り替わっていくことになりますが、その中心地はシティ・オブ・ロンドン(通称シティ)へと移り変わります。 これは、米国ドル以前の基軸通貨だったポンドの復権ではなく、現代金融システムの中心だけがシティへ移り変わったことを意味します。 今日、世界的金融システムは常にシティが動向を定めています。 少しややこしいのですがシティと英国は別物であり、ロンドン市長 (Mayor of London)とシティ・オブ・ロンドン市長(Lord Mayor)はまったく別の役職の別の人物です。 シティは独自の警察機能を持ち、エリザベス女王陛下でさえもシティ・オブ・ロンドン市長(Lord Mayor)の許可が無くては、域内に入ることができない自治都市として機能しています。 このシティこそが、世界一の為替市場を持つ世界的な金融システムの暗部そのもので、米国ウォール街はただの実行部隊にしか過ぎないのです。 そして、この現代金融システムのカラクリに世界は振り回されてると言っても過言ではありません。 日本も例外ではなく、戦後GHQによって財閥解体や華族制度の廃止などで日本のヒエラルキーは極めてフラットになりました。 また、朝鮮戦争による特需によって日本は高度経済成長のきっかけを得る事ができました。 また、プラザ合意によるバブル経済は、その後制御を失って「失われた20年」と言われているのはご存知だと思います。 これら全ては外的要因(主に米国)によるもので、日本の経済は常に米国の金融政策次第となっているのです。

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